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8.帰依(きえ)の段階――読経の醍醐味

お経に習熟し、信頼と根拠を置く最終段階。

科学的・合理的思考に慣れた現代人にとっては最終段階ですが、初めからスッとお経に帰依できる方を多く見て来ました。毎朝、神棚とお仏壇へのお参りを欠かしたことのない、昔農業を営んでいた地方在住のある高齢の善良なご婦人が「今までに死にたいと思ったことがない」と言われたのを聞いて、「現代の妙好人だ!」と敬服した思い出があります。

冷笑的(シニカル)な人の多い現代では、信じることができるということは、一種の才能ないし美質と呼んでいいと思います。オウム真理教といった恐ろしい宗教もありますが、お経は歴史によってテストされた副作用のない信仰対象であり、科学の時代と言えども信じなければ損と言えるほどのものなのです (宇宙の壁の向こうがお分かりですか? ビッグバン前後の『時間と存在』について御存知ですか?)

信仰対象としてのお経では『平家納経』が有名です。平安時代に安芸(あき)(広島県)の宮島の厳島(いつくしま)神社に平家一族の繁栄を願って平清盛らが納めた豪華絢爛たる何十巻もの装飾経で、金箔を散らした紫や紺色の染紙に銀泥(ぎんでい)で経文が平氏の肉筆によって書写されており、国宝に指定されています。それにしても「滅びし平家の公達(きんだち)あわれ」――諸行無常という感慨をうたた禁じ得ません。

また色即是空は仏教だけの専売特許ではありません。旧約聖書の『伝道の書(コヘレトの言葉)』は「なんというむなしさ、なんという空しさ、すべては空しい」という言葉で始まる無常感に満ちた書物です。「現代の世界はグローバル化している」と言われますが、昔から世界はグローバル化していました。ユーラシア大陸というのはユーロ+アジアでヨーロッパとアジアは地続きなのですから。世界各地の昔話・民話の研究でも、世界共通のパターンがあることが知られ、話のパターンごとに分類番号がつけられています。

知性と教養とプライドが邪魔をして信じることができなくなっているのは、現代の病理かも知れません。以上、読経療法の効果と段階を、教養ある現代人のために便宜的に順を追って書いてきましたが、仏教であれば、いきなり④帰依の段階でも大丈夫です。特に、③納得の段階は、理性・分別に働きかけて議論を進めていくものです。ところが「沈黙は金」という諺があり、「議論百出」「甲論乙駁(ばく)」という四字熟語があり(ああ言えばこう言うという意味)、夏目漱石は『草枕』の中で「智に働けば角が立つ」と言い、孔子様も『論語』の中で「最終的には知ることはできない。帰依することができるだけだ」と言っているのです。

「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」の「南無」とは「帰依します」「ゆだねます」「おまかせします」「あずけます」という意味です。大いなるもののふところの中に身をゆだねて飛び込んでいくこと、それが他力本願です。もちろん「人事を尽くして天命を待つ」の、人事を尽くした後での他力本願であることは言うまでもありません。

少し難しい話をします。読経とは経典の文章を読み上げてゆくことですが、読みながら文字に引っ掛かって命の流れを堰き止めてしまってもいけない。かといって自動的な機械作業、口先だけで唱えるカラ念仏になってしまってもいけない。知り尽くして手ごたえを感じつつ流れに乗って読む微妙なかね合い!

禅宗で「不立文字(ふりゅうもんじ)」と言って分別を嫌う、難しい課題があります。読経においても「たましいを込めて誦(よ)むとはどういうことか?」、③納得の段階と④帰依の段階を何度も行き来して時間をかけて究(きわ)めてゆかなければならない、一日にしては成らない奥の深い難しい問題がはらまれていると思います。難しいからこそやりがい・醍醐味(だいごみ)があるのです。ちなみに醍醐味とは『涅槃経』から出た言葉で、牛→乳→酪(=バター)→熟酥(じゅくそ)(=カルピス)→醍醐(≒チーズ)と境地が進んでゆく五味中の最上の味・教えのことです。

『法華経』の第四章の名を「信解品(しんげほん)」と申します。本論文の初めの方で卵と玉子のたとえ話をしましたが、信仰(信)と理解(解)とは不即不離の関係にあるのです。道元禅師の「修証一如」もこの文脈でとらえたいと思います。

以上、読経療法の四つの効果ないし段階について述べました。