仏教では涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)の境地に至ることを最終目標とします。いっさいの煩悩(ぼんのう)・雑念の火の吹き消された静かな心の状態をいいます(寂滅涅槃)。
みずから躁うつ病に悩んだゲーテ31歳のときの有名な次の詩は、涅槃の境地を主題とするものです。
「旅びとの夜の歌 第二」
山々は 静かに暮れて
木末(こずえ)には 風もそよがず
夕鳥の声 木立に絶えぬ
待てしばし
やがて汝(なれ)も憩わん
(山口四郎訳)
イエス・キリストは34歳で殺されました。それに対してお釈迦様は80歳まで長生きをされ、老賢者の熟成をされてお亡くなりになりました。それに応 じてキリスト教の教えには激しくきついものがあり、仏教は静かな、良い意味で老成した中道を行く教えです。ちなみにキリスト教は仏教と違って、カソリック 修道院を除いては「修行による成熟」という概念が希薄であるのは、キリストが早死にされたからです。
孔子様のいま一つのお言葉にならって私は次のように言いたい――「行(ぎょう)じて識(し)らざれば即ちくらく、識りて行ぜざれば即ちあやうし」と。ここでの「行」とは、日々深めてゆく読経のおつとめのことです。
俗人には死んだ時に初めて心の平安が訪れるので、死、即涅槃とされ、仏教が死者儀礼にあずかるようになる一因となりました(入滅涅槃)。インドには なく中国と日本にある「ご先祖様が見守ってくださっている」という先祖崇拝・祖霊信仰です。確かに私たちの心身の内にはご先祖様が息づいておられますよ ね。お仏壇は私たちの内にいるご先祖様を映し出す鏡です。
人もひとも猫さえも吾に微笑(ほほえ)みを残して行ける一つ郷(くに)あり (さめじまあきお作)
しかし、本来は生きている生のただ中で涅槃に入ることを目標に、仏教の修行は組み立てられています。坐禅を組むも良し、お題目を唱えるも良し、お念仏を唱えるも良し、四国八十八カ所をお遍路巡礼するも良しなのです。
読経療法もさまざまある入涅槃のための方便の行(ぎょう)の一つとして位置づけられると思います。「すべてのものは移ろいゆきます。おこたらずつと められますように」とお釈迦様は、その生涯の最期(大般(だいはつ)涅槃の時)におっしゃいました。皆様方のご研鑽とご繁栄を願ってやみません。
仏は常にいませども
現(うつつ)ならぬぞあわれなる
人の音せぬ暁(あかつき)に
仄(ほの)かに夢に見え給う
(『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』より)
◆ 命終(みょうじゅう)の星 超新星(スーパーノヴァ)として生(あ)るる 仏の子 エキュメニズム(超教派体)に集え!(さめじまあきお作)
* 星は一生を終えると、超新星になると言う。
◇ 薄い小冊子ですが、郵送料込みで500円でお分けします。